立命館大学馬術部の変遷

立命館大学馬術部は何度もの厩舎移転を繰り返しながらその都度、様々に変化してきました。その変遷期にリアルタイムで立ち会われた先輩達の当時の声が残っています。各人の文章からは、馬術部に寄せる思いと、当時の様子を伺い知ることが出来ます。
尚、資料は銀鐙80周年記念特別号より抜粋しています。


 

 

平成10年10月発行『銀鐙 創立80周年記念号』
悠久なる80周年の祝辞
昭和25年 経済学部卒  北浦 義三
吾が部の創立の歴史は遠く、大正7年(1918)に故渡辺喜四郎先輩(毎日新聞)が、当時の日本陸軍16師団長に交渉して軍馬による日曜日の乗馬練習を申し入れされ、同志の学生を集めて馬術部を組織されたのが、そもそもの開闢の歴史であります。 -中略させて頂きます- 昭和18年、良馬は陸軍へ献納して部の活動は休止の止む無きに至るが、昭和20年終戦により、軍隊より復員される先輩または軍需工場の学徒動員より復学する学生が10月に広小路キャンパスの14号教室に集合して再会を喜び、また馬術部の再建を誓ったものです。この時代ほど母校愛と愛部心に燃えたことは、正に空前絶後というべきもの大きく、またスポーツに飢えた時代でもあったと思います。

 

昭和40年6月発行『立命館大学馬術部 報告Ⅰ』
馬術部の復活と厩舎の移転
昭和23年 経済学部卒  太田 克巳
わが立命館学園馬術部 は大正7年に創立し、今年で47年目の誕生日を迎えた訳である。この半世紀にわたり幾多の変遷を経て今日の馬術部 に至るものである。創立当初の詳しいことは知らないが、ともかく上賀茂の神山に厩舎が設立され事実上、自馬制が置かれ、 ここに体育会馬術部として名実ともに学生馬術会に一歩を踏み出し活動を始めたのである。ところが昭和13年に至り、中学予科専門部・学部を統合した禁衛隊馬術部が創立されることになり、前記体育会馬術部も統合されて新しく立命館禁衛隊馬術部として発足する運びとなった。衣笠山麓(元衣笠球場) に新厩舎が   新築され、馬16頭を保有し、全国学生馬術会にその偉容を誇った。当時は戦国時代の華やかなりし頃にて、第16師団 の騎兵部隊より教官を迎え厳しい騎道訓練の指導を受けたものである。こうした5、6年は馬術部にとって最も恵まれた環境にあり、存分の鞍数を経験した時代であった。
昭和16年大東亜戦争が勃発し仝18年12月学徒動員令が降り、わが馬術部の先輩、同僚が次々と出征し、私も仝19年に学徒兵として戦陣に加わっ   た。  かくして愛馬も次々と軍に献納されてしまい、事実上馬術部の活動は停止せざるを得ない状態となった。

昭和 20年 8月15日、終戦を迎え次々と同僚が復員し、私もその年の10月に復員と同時に、馬術部の再興には私の1年先輩の桑原啓介君(昭和22年卒、昭和39年病死)が中心となって尽力したものである。翌 21年4月学園の授業復活と同時に新入部員を迎え再出発し、もとの衣笠厩舎に全国学生馬術界に先駆けて、自馬制を復活したのである。

終戦当時は馬1頭 (藤波号)に、新たに2頭 (秀清号、秀薫号)を購入し僅か3頭を保有するのみであった。 部員は新入部員を加えて35、6名であったと記憶する。 練習の場合は乗馬クラブや個人(宇田、西野、中村の3氏)の愛馬を借用したものである。

終戦1周年を迎えた21年の盆に、当時学生であった我々の手により、馬術部の先輩諸兄の戦没者慰霊祭を等持院の本廟で執り行ったものである。乗馬して厩舎から大学に通い、授業中は京都御所の御苑の草刈を部員交代で行い、やっと馬糧の不足を補ったこともある。 当時を想うと今昔の念に堪えない。 昭和21年9就任し、22年2月北浦義三君に主将を引き継ぎ監督として残った。

昭和23年3月私が卒業すると同時に、衣笠球場の建設が行われることとなり、止むなく一時厩舎を取り壊し、近くの空地に(現グランド)おいて練習を補足した事もある。

昭和26年、再び衣笠球場入口の空地(一部溜池を埋立て)に新厩舎を再開し、正規の馬場で練習する事となった。

しかるに昭和32年に京都市の区画整理による新路線建設のため、厩舎を立ち退かざるを得なくなって、ここに3度厩舎を大宮脇台町の牧場 (藤井牧場跡)を買収して移転し、以来8年目を経て現在に至る。

ところが又々、現在地は京都市の区画整理による路線建設のため移転するはめとなって、4度上賀茂柊野の総合グランド建設地に厩舎を移転する事を余儀 なくされる事となった。創立後半世紀の間、4度厩舎移転の運びとなったが、創立当時の上賀茂の地に再び厩舎が還ったことは興味深い事と言わねばなるまい。今後、上賀茂柊野の地に厩舎が移転した場合、これからの半世紀以上 おそらく他へ移転することは、まづあり得ない事と思う。今度こそ、この地に恒久的で立派な厩舎と馬場が一日も早く再現される事を切に希望するものである。

この厩舎及び馬場建設を契機として、我々OB並びに現役はお互いの力を結集して実現に努力したいものである。私もOBの一員として出来る限りの努力は惜しまないものである
『銀鐙80周年特別機年号』より
後世に残る歴史と伝統を刻み続けて
昭和40年卒  伊藤 信吾
立命館大学馬術部が創立80周年を迎えたことを心からお慶び申し上げます。大正7年(1918年)人間で言えば傘寿、奇しくも午歳であります。決して短い歳月ではありません。戦前戦後を通じ馬術部存亡の苦難の時代があり、あるいは輝かしい戦績の時代がありました。衣笠厩舎時代、玄琢厩舎時代そして柊野立命館大学総合グランド内馬術部厩舎時代と、その時代時代の部員(先輩諸氏)のたゆまぬ継承によって今日に至っております。21世紀を目前にして、いま日本が大きく変わろうとしています。その変化は日本中の、ありとあらゆる様々な制度や仕組みに、これまでとは異なる新しい理念を求めているかのようであります。言うまでもなく大学もその例外ではないでしょう。歴史を創っていくのは誰か?「歴史は創るものではなく後世の人の価値観によって創られるものである」 大仰な言い方になって恐縮ですが既成価値観の崩壊を目の当たりにして、ふとそんなことを考える今日この頃です。大学生活において勉学と並ぶ2本柱ともいえるのがクラブ活動であります。立命館大学馬術部の輝かしい歴史と伝統を引き継ぎ、競技で勝つことを目的として精神、技能、身体を鍛えることに打ち込み、充実した大学生活を楽しみ、社会に出てからは、再び味わうことのできない貴重な青春時代を送ることができたことに私は感謝しております。立命館大学馬術部はこれからも刻一刻と時を刻み続けていきます。先輩と後輩あるいは、OBと現役学生との相互の信頼と愛情の深い心の絆から生まれる伝統によって後世に残る歴史が創られていくものと思います。